川合玉堂 孤鶴 共箱

 
川合玉堂 後藤画廊(ごとうかみてん)おうちギャラリー gokami 後藤紙店 大橋翠石 棟方志功 梅原龍三郎 児玉幸雄 三岸節子 前田青邨 川合玉堂 平山郁夫 伊藤小坡  堀文子 秋野不矩 草間彌生 片岡球子 篠田桃紅 上村松園 千住博 岩永てる美 加藤東一    丁子紅子 今井龍満 横山大観 東郷青児 出口雄樹 上村淳之 金丸悠児 熊谷守一  新山拓 鈴木強 藤田嗣治 武蔵原裕二 森田りえ子 荻須高徳

川合玉堂

愛知県葉栗郡外割田村(現在の一宮市木曽川町外割田)にて、1873年(明治6年)11月24日、筆墨紙商の長男として生まれる。1881年(明治14年)、一家は岐阜市に移住する。絵には12歳頃から親しむようになったという。1886年(明治19年)、京都の画家・青木泉橋が岐阜に来住すると、夫人も翠蘋と号する美人画家で、芳三郎少年は青木夫妻の知遇を得て大いに刺激を受けたという。 1887年(明治20年)・14歳を迎える年の9月、青木泉橋の紹介状を持って京都に上り、四条派・望月玉泉の門に入り、「玉舟」の号を得る。1890年(明治23年)11月になると円山派・幸野楳嶺の画塾「大成義会」に入る。同年、『春渓群猿図』『秋渓群鹿図』の連作を第3回内国勧業博覧会に出品して早くも入選を果たすと、これを機に「玉堂」に改号した。

1896年(明治29年)・23歳の時に上京して(東京へ移住して)橋本雅邦に師事する。岡倉覚三(天心)、雅邦、横山大観らの創立した日本美術院には1898年(明治31年)当初より参加。1900年(明治33年)頃からは私塾「長流画塾」を主宰している。1907年(明治40年)には第1回文展(第1回文部省美術展覧会。)の審査員に任命され、また、1915年(大正4年)からは東京美術学校日本画科教授、1917年(大正6年)6月11日には帝室技芸員に任じられ、日本画壇の中心的存在の一人となる。1931年(昭和6年)にはフランス政府からレジオンドヌール勲章を授与された。1933年(昭和8年)にはドイツ政府から赤十字第一等名誉章を授与された。1936年(昭和11年)年、帝国美術院の改革案が平生文相から示されると反対の意思を示すために、横山大観らとともに美術院会員を辞任する。その後、1937年(昭和12年)に帝国美術院が改組して帝国芸術院として発足すると芸術院会員となった、1940年(昭和15年)には日本政府から文化勲章を授与された。第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)、かねてより写生で頻繁に訪れていた東京都西多摩郡三田村御岳(現・青梅市御岳)に疎開し、住居を「偶庵(ぐあん)」、画室を「随軒(ずいけん)」と称した。戦後も同地の自然を愛する玉堂はそのまま定住し、同地にて1957年(昭和32年)6月30日死去 

正三位・勲一等旭日大綬章(没時叙勲)

玉堂のもとには、長野草風、池田輝方、池田蕉園、松本姿水、山内多門、高橋玉淵、今中素友、田中針水、石渡風古ら多くの門人がいた。

日本の自然をこよなく愛し、日本の四季の山河と、そこで生きる人間や動物の姿を美しい墨線と彩色で描くことを得意とし、数多くの風景画を描きました。14歳で京都画壇に入り、のちに円山派の幸野楳嶺に師事し天分を大きく伸ばしました。23歳で東京画壇に転じ、橋本雅邦に学び狩野派を極め、円山・四条派と狩野派を見事に融和させ、日本の四季が織りなす美しい自然の風物詩を情趣豊かで写実的に描く独自の境地を開きました。

後藤画廊(ごとうかみてん)おうちギャラリー Gokami

大橋翠石 棟方志功 梅原龍三郎 児玉幸雄 三岸節子 前田青邨 川合玉堂 平山郁夫 伊藤小坡  堀文子 秋野不矩 草間彌生 片岡球子 篠田桃紅 上村松園 千住博 岩永てる美 加藤東一    丁子紅子 今井龍満 横山大観 東郷青児 出口雄樹 上村淳之 金丸悠児 熊谷守一 新山拓 鈴木強 藤田嗣治 武蔵原裕二 森田りえ子 荻須高徳