1873年 明治6年  愛知県葉栗郡外割田村生まれ。本名・芳三郎。
1887年 明治20年  岐阜県尋常高等小学校を卒業。青木泉橋の紹介状をもって京都・望月玉泉の門に入り、「玉舟」の号を与えられる。
1890年 明治23年  勧業博覧会出品にあたり、「玉堂」と改める。
1896年 明治29年  上京、橋本雅邦の門に入る。
1915年 大正4年   東京美術学校教授を拝命。
1919年 大正8年   帝国美術院会員となる。
1924年 大正13年   玉堂、小堀鞆音、下村観山、山元春挙、竹内栖鳳、横山大観、6人の淡交会生まれる。
1931年 昭和6年   フランス、レジョン・ドヌール勲章を拝受。イタリアの皇帝よりグランオフイシェー・クーロンヌ勲章を拝受。
1933年 昭和8年   ドイツ政府より赤十字第一等名誉章をおくられる。
1935年 昭和10年   帝国美術院会員に任命せられる。勲三等瑞宝章を賜わる。
1940年 昭和15年   11月紀元2600年式典当日、文化勲章を受章。
1957年 昭和32年 没  享年84歳。(勲一等旭日大綬章を賜わる)

愛知で生まれ、岐阜で育った川合玉堂 日本の自然をこよなく愛し、日本の四季の山河と、そこで生きる人間や動物の姿を美しい墨線と彩色で描くことを得意とし、数多くの風景画を描きました。
地元住民や企業の支援で14歳で京都画壇に入り、のちに円山派の幸野楳嶺に師事し天分を大きく伸ばしました。
23歳のときも地元住民の支援のもと東京画壇に転じ、橋本雅邦に学び狩野派を極め、円山・四条派と狩野派を見事に融和させ、日本の四季が織りなす美しい自然の風物詩を情趣豊かで写実的に描く独自の境地を開きました。
玉堂の山水図に描かれている人物は人としてなすべきことすなわち老若男女問わず働く姿が描かれていますし動物特に荷物を運ぶ馬の描写は本当に重い荷物を背負っているようにみえます。毎日のように散歩をしながら野花や動物そして風景をデッサンし続け生涯に描いた作品は三万点とも四万点とも言われております。特に人気の高いモチーフは鵜飼図・雪景図・秋渓図です。特に雪景図は他の作家の描いた雪景と違い、描く本紙や絹本に着色をしないためにあたたかみのある作品と言われております。

八十杖 45×33
わがあゆみ八十路に入りぬあたらしき 鳩杖つくり踏まん大地 八十翁 愚庵
川合玉堂八十歳の時好んで描いた画賛

後藤画廊 (ごとうかみてん)